SLE患者の徒然日記。

全身性エリテマトーデス(SLE)に関連する色々なことの掃きだめ。

SLEの闘病生活 その3


※病気に関するお話です。重い内容が苦手な方はご注意下さい。


血漿交換療法と前後するように、
「シクロホスファミド(エンドキサン)」の点滴も始まりました。
簡単に言ってしまえば抗ガン剤の投与です。
抗ガン剤というのは細胞分裂を妨げる効果のある薬剤のことだそうで、
SLEは免疫細胞が異常に活性化してしまっている状態なので
それを抑えるために抗ガン剤が効くそうです(素人の意訳)。

とはいえ、ガンの患者さんに投与する量に比べたら
SLE患者に投与されるエンドキサンの量はとても少ない(らしい)です。
それもどうやらアメリカの治療方針だとこれくらいで
ヨーロッパ系だとこれくらい投与するのが良いとされていて
とか色々あるらしいのですが、無駄に長くなりそうなので割愛します。
(もし同じ病気だから詳しい投与量とかが気になる、って方がいたら直接聞いてきてください)


この「エンドキサン」は、
当然ながら劇薬なので色々な副作用も起こります。
髪の毛の量が減ったり、
女性でいえば不妊の確率が上がってしまったり。
命には代えられないので仕方ないですが、
自分は髪の毛の量が半分くらいになりました(投与が終われば毛量は戻ってきます)。
元々が多かったから乾かしやすくて丁度いいくらいなのが救いですが。
そのため、できる限り医師もエンドキサンを使わないで済むような治療を推奨してきます。
SLE患者の8割以上は腎臓に炎症が起きるのですが、
その腎臓に効くだけのお薬なら別の物が存在します。
そして、たとえば関節炎に効くならこれ、
心膜炎に効くならこれ、というように
エンドキサンに代わる薬も当然ながら色々と存在するのです。
ですが、重態かつ肺胞出血に一番効果があるのがエンドキサンだということで、
年齢的にも若いからあまり使いたくないのだけどと言われながら
また何枚かの同意書を書いて、点滴をしてもらいました。


こんな怖いようなことも色々と書いてみましたが
点滴自体は特に問題もなく、普通に終了しました。
ただ、点滴を投与する日の朝に身長と体重を測られ、
投与の数時間前から夜まで一日中生理食塩水の点滴が追加され、
エンドキサンの点滴中(約1時間)は15分おきに看護師さんに体温と血圧を測られ……
と、非常に面倒な治療でした。
多分面倒なのは私自身よりも担当してくれた看護師さんだったと思いますけどね!
だって私ほぼ寝てるだけだったから!!

どうやら人によっては、
吐き気があったり高熱が出たり、
血圧が上がりすぎてしまったりという副作用が出ることもあるそうで
投与中は基本的に看護師さんとの楽しいお喋りタイムでした。
担当してくれた看護師さんとは最寄り駅がお隣ってことを知りました。世界って狭いね。


そんなこんなで大きな治療がひと段落。
微熱は続くものの、なんとか動けるくらいには回復したため
脳や腎臓の詳細な検査を進めようということになりました。
それが、大きいものだと2つ。
一つ目は、
搬送されてきた当初がものすごい高熱だったため、
脳の血流が低下している恐れがあるとのことで
少量の放射性物質を点滴に混ぜて、MRIのような専用の機械に入って
脳の血流量を調べるという「脳血流シンチグラフィー」という検査。
それから二つ目が、
背中から針を刺して腎臓の組織を切り取り、
その組織を見る「腎生検」という検査。


一つ目の脳の検査は、11月の20日に行われました。
前日の点滴にちょっとだけの放射性物質とやらが混ぜられていて、
20日は朝ご飯を食べ終わってすぐに車椅子で運ばれ、
薄暗い部屋でアイマスクをつけて横になるように指示されました。
その状態で15分から30分くらい目を閉じ、
脳の血流が安定してから専用のカメラで血流量を測定するそうです。
リラックスしててね、寝てていいからね、と言われたものの
食べてすぐに寝れるわけないじゃないですか。寝たけど。
終わりましたよー、と起こされたのが30分ほどしてからで、
合計しても1時間くらいの簡単な検査でした。
結果、後頭葉の左右に血流低下がみられると言われましたが
大きな損傷や後遺症が残るような状態にはなっていなかったそうです。
頭痛は前より少し多くなるかもしれない、という程度らしく
きっと元気になってくればシナプスが頑張って復活するんだろうな(適当)と思ってます。


そして二つ目の検査。
腎生検。
これが大変な検査でした。できることならもう二度とやりたくない検査です。

Xデーは11月22日(金)。
PM2時からの検査です。
昼食を済ませると、まずは手術着に着替えます。
着替えるのは上半身だけなのですが、面白いことに前後逆に服を着ます。
なぜなら腎臓は背中側にあるので、
うつ伏せになった状態で背中側から検査をするからです。
そして着替えが終わると、カテーテルの挿入処置をします。
これはちょっと嫌だったけどまあ仕方ないですね。
以上で下準備は完了。自分の足で歩いて(車椅子だけど)処置室へ向かいます。
そしてベッドにうつ伏せになり、
まずは超音波で腎臓の位置を確認されます。
首を捻りながら超音波の映像が映る画面を眺めていたのですが、
モノクロの波が映っているだけでよくわかりません。
これが読み取れる医者って職業はすごいなぁと思いつつ、
血圧計と血中酸素量を測る器械を装着します。
そして見せられたのが、検査で使うという針。
ボールペンの芯くらいの太さの針です。
刺すときに大きい音がするからビックリして動かないでね、
と言われてガチャンとその音を聞かされました。
結構大きい音がするんですよねーこれが。
説明されなかったら絶対身動きして大怪我をしそうなくらい。
そして次に呼吸の練習です。
呼吸で腎臓が上下に動いてしまうので、針を刺す瞬間は息を止める必要があります。
そのため、息を吸った状態でどの位置で腎臓が止まるのかを確認しないといけないとのこと。
超音波で確認しながら何度か練習をすると、とうとう本番です。

麻酔を注射され、しばらくその状態で放置。
本番は痛くないけど麻酔はちょっと痛いよ、と言われて痛いなと思いながら刺されました。
でもこの頃にはだいぶ注射慣れ(?)していたので
そこまで苦痛には感じませんでしたが……。
そして15分ほど経って麻酔が効いてくると、
いよいよ先ほど見たボールペンの太さの針を刺されます。


医者「じゃあ刺しますよー、痛かったら言ってくださいね」
私 「お願いします」
医者「……え、筋肉が硬くて刺さらない」
私 「……すみません、ちょっと痛いです」
医者「…………麻酔追加しますね」


ネタじゃないですよ?
本当にあった会話ですよ?
多分、私が合唱をやっていたことが原因なのだと思いますが
腎臓周りの筋肉が異様に分厚く、なかなか針が刺さらなくてとても大変だったらしいです。
結構力を入れられたからか微妙に痛みを感じて、
少し怖かったので麻酔を追加してもらいました。
じわじわズキズキって感じだったので麻酔の追加がなくても問題はなかったとは思いますが。

そして麻酔を追加され、再度針のリベンジ。
硬いなぁ刺さらないなぁと3人くらいに背中を覗き込まれながら、
ようやく腎臓までたどり着きました。
そして先ほど練習したように息を止め、ガシャン!と針が刺される大きな音。
即座にその針が抜かれると血圧を測られ、
同時に結構な力で針を刺した場所を上から押さえつけられます。
息苦しいしアンコが出そうになるくらいでした。割と本気で苦しかったですよこれ。
そしてその状態で15分。5分おきに血圧を測定されます。
腎臓は血管だらけの臓器なので、針を刺したらすぐに
出血が治まるまでその場所を圧迫止血する必要があるそうです。
15分経って、超音波で出血がないことを確認されると、同じことをもう一度繰り返します。
この腎生検では、一般的に2回から3回針を刺すそうで
私の場合は2回でした。針を刺すのが大変すぎて3回は無理と思われたらしいです。
3回の方が一般的って聞くからちょっと面白いですね。

そしてまた潰れた饅頭気分になりながら15分が過ぎると、
絶対に体に力を入れないように、動かさないように、と言われながら
5人がかりでうつ伏せから仰向けにひっくり返され、
そのまま元のベッドに運ばれます。
その状態から、

次の日の朝まで1ミリも動かず安静で過ごさなければいけません。

次の日の朝までですよ。
検査が終わったのが5時前だったので、そこから半日以上です。
首と手だけは多少動かせますが、
腹筋に力が入るような行動は厳禁な上
足なんて動かそうものなら出血のリスクがあるので絶対に動けません。
血栓予防の器械を足に巻かれて、
背中には圧迫のための砂袋を置かれて、
腰がキツい状態で安静です。腰痛持ちの人にはきっと地獄ですよねこれ。

戻ってしばらくして夕食の時間になったのですが、
それも寝たままで食べなければいけません。
食べやすいようにとおにぎりの夕食で、
枕を少しだけ高くしてなんとか口に流し込みます。
お味噌汁もあったけど飲めたもんじゃありませんでした。
この時私はストローでお味噌汁は飲んじゃいけないということを知りました。
咽せて咳したいのにお腹に力入れたらダメとかどうしたらいいの状態に陥ります。
腎生検を受ける予定の方は術後にお味噌汁飲まない方がいいですよ……。


そして夜の9時頃になると、背中に置かれていた砂袋が外されます。
これがないだけでだいぶ腰が楽になりました。
どうやら痛みに耐えられないという患者さんが多いとのことで、
大量の鎮痛剤を渡されました。
でも腰痛持ちでもなく、腎臓が筋肉の鎧に囲まれていたらしい私としては
動けなくて血圧が下がって気持ち悪いという事の方が辛いという特殊な状況でした。
どうやら普通は寝ている間にちょっと身じろぎしたりしていて、
限界まで鎮痛剤を飲んでも腰が痛いと言いながら
針を刺したのと反対側の足をじわじわ動かしているらしいです。

「なんで鎮痛剤使ってないの? ホントにここまで動かなかったの!?」

と朝の担当の看護師さんに驚かれました。
鎮痛剤を使わなかったことがナースセンターで話題にされてたって言うし。
だって動いたら出血するって聞いたら怖いじゃん……?
そんなこと聞いたら動けなくなるじゃん……?
鎮痛剤使わなかったのは単にそこまで辛くなかったからだし……。


そんなこんなで低血圧で迎えた朝。
腎臓からの出血が止まっているかどうかを超音波で確認すると、
やっと安静解除になって朝ご飯です。
……なのですが、
血圧が下がりすぎて動けなかったため、10時頃まで横になっていました。
ようやく起き上がれるようになってから軽く歩行練習をし、
問題がないことを確認してからカテーテルを抜いて服を着替えます。
手術着ってマジックテープ製だからすぐにはだけちゃうんですよね。
その日から3日はシャワーも禁止、
1か月間は腰を捻ったり階段を昇降したりも禁止です。
なんて大変な検査なんだ!!


こんな大変な検査でも、
世界的にSLEの患者は基本的に腎生検をした方が良いとされているそうです。
前述した通り、8割方のSLE患者は腎臓に病変が起きて血尿や蛋白尿が症状として現れます。
もちろん私も例外ではありません。
その病変を「ループス腎炎」というそうなのですが、
これがいくつかの型に分けられていて、その型によって治療法が微妙に異なるそうです。
その型の特定のためには組織を顕微鏡で解析する必要があるので、
腎生検は基本的には必ず行う検査となっているとのことです。

そしてその結果が2週間ほどして上がってきました。
透析一歩手前の一番重症な型でした。
そう聞いた時、
(マジか……)
みたいな反応しかできずに両親と一緒に固まっていたのですが
今現在行っている治療が既に効果的なものなので、
その効果も表れ始めているから心配しないでと言われて少し落ち着きました。
最重症型、って入院してから何度聞いただろうと思うくらい
あらゆる検査で重症認定されるせいで最早笑うしかない感じでした。

腎臓がそれだけやられているはずなのに、食事制限が一切ないのが不思議でしたが
治療はこのまま続くと確定し、大掛かりな検査は一旦これで終了。
暇とも優雅ともいえる入院生活が訪れました。

SLEの闘病生活 その2


※病気に関するお話です。重い内容が苦手な方はご注意下さい。


8日の時点で三途の川を渡りかけていた私ですが、
その日のうちにステロイドの投与が開始され、
ようやく苦痛からは解放されました。
体中が痛くても、頭痛と高熱がないだけで本当に楽になりました。
いやーほんとによく頑張ったわ私。誰か褒めて。

SLEの関節痛は基本的に「非破壊性」のものなので、
痛みはあっても変形や後遺症の出るような状態にはなりません。
(一部、破壊性の関節炎が起こる方もいるようです)
そのため、点滴やら心臓・酸素の計測器やらを繋がれながらも
10日までの三日間、薬剤投与をされ、なんとかギリギリで間に合ったねーと
医師も両親もお祝いムードに移行しかけていたところでした。


この後元気になってきたら腎臓の検査もしなきゃいけないね、
それから脳の検査と心臓のエコー検査と眼科と……等と、
まだ熱があるのに10枚近い説明書と同意書を見せられて、
車椅子のうえでゲンナリしていたのが10日のこと。
まだスマホを持ちあげることもできない程、
手にも力が入らない状態だったので
同意書は全部父が代筆しました。
「まず使うことはないだろうけど」
と医師には言われながら、念のためということで
輸血やら透析やら、抗ガン剤治療やらの説明も受けました。

担当医の先生がとても慎重な方だったので、
もしかするとこういうこともあるかもしれないし
万が一にはこんな危険もあるかもしれない、
まあ確率としては5%もないけど、
というようなことまで説明してくれました。
その時は
「必要な事なのはわかるけど不安煽らないでほしいな」
などと思っていたのですが、
この時説明を受けていなかったらと思うとぞっとしました。



と、いうのもですね。


12日の朝のことです。
39度を超える高熱、そして口の中に血の味。
うがいをしたらその水には血が混じり、
お手洗いに立つだけで視界が暗転して立っていられなくなりました。
明らかに様子がおかしいから、と即座に採血とレントゲンに回され
そこで新たな症状が出ていることが判明しました。


それが、

肺胞出血

というものです。


肺胞出血というのは、
文字通り肺の中で出血している状態です。
本来は酸素を取り込む場所が、血で満たされて息ができなくなってしまうわけです。
SLEの病勢が非常に強い場合にだけ起こりうる症状で、
発症割合はSLE患者全体の3~5%程度とのことです。
そして、肺胞出血をしてしまうと、死亡率は25~50%
今ここにいる私は50~75%側に入れたということです。危なかった。

面会時間になって両親がやってくると、
車椅子に乗せられて説明室に運ばれ
レントゲンの写真を見せられました。


「右の肺の下の方で出血しているようです。
 肺の中を覗いて洗浄し、
 肺胞出血と確定したら血漿交換療法を行います。
 場合によってはその後エンドキサン投与も考慮します」


と説明をされました。
血漿交換ってことはつまり輸血、透析ってことですね。
血液の中の血漿だけを取り換える処置だそうで、
詳しいことはよくわかりませんが血漿を取り換えると肺胞出血が治まるらしいのです。
このあたりの説明はかなりの高熱+酸素不足の中でされたので
あまり詳細は覚えていません。まあ当然か。


そしてその翌日、気管支鏡という器械を口から肺のなかに突っ込んで検査をされ、
肺の中を洗ったら出てきたという真っ赤な血液の入った試験管を見せられました。
それだけ聞くと

「痛そう!!」

とか思われそうなところですが、
胃カメラと違ってカメラを入れる前にがっつり麻酔をかけられるので
痛くも痒くもありませんでした。
口の中と喉に感覚がない状態なので、肺の中を洗浄している時だけ
多少の息苦しさと咳き込みそうな感覚があったくらいです。
加えて、かなり強い麻酔を投与されるため、検査中は朦朧とした状態でした。
そもそもほとんどの人は検査中寝ているとのことで
私が起きていたのはただの好奇心のためです。
だってどんなことするのか気になるじゃん。貴重な体験だし(?)


その検査で、やはり肺胞出血をしているということが確定。
13日から血漿交換療法をすることになりました。
気管支鏡の検査の直後に家に電話で一報入れられていたそうで、
後から両親に

「朝一に病院からの電話が来るのは心臓に悪い、何かあったのかと思った」

と言われました。
実際何かあったんだけどね!死にかけてたわけですから!!


そして朝食が運ばれてくるような時間に両親がやってくると、
すぐに病状の詳細な説明がされました。
右の肺が血だらけで酸素が取り込めない状態になっているため、
本来なら99~96%の血中酸素濃度が92%程度になっているとのこと。
ヘビースモーカーでも、最悪でも94%くらいはあるそうで
通常状態より3-4%下がってしまうと「何らかの急性疾患」が起きていると判断されるそうです。
90%を下回ったら酸素吸入器を繋ぐよ、と言われましたが
その時は吸入器は使わずに済みました。
あれ苦しいって聞くから回避できてよかったわ。

けれど、やはり体に酸素が足りていないのは確かだったようで
その日の夕方、トイレに行って用を済ませたものの、
便座から立ち上がろうとしたところで息が詰まって眩暈に襲われてぶっ倒れました。
ナースコールのおかげで事なきを得ましたが、
それ以降お手洗いも看護師さんに付き添われることになりました。
どんな羞恥プレイですかって感じだけど命には代えられませんね。
吸入器使う? と何度か聞かれましたが遠慮しておきました。
今思えばせっかくの機会だから使ってみればよかったかなって……。


13日になると、朝食を摂るやいなや透析室へ運ばれました。
「痒みとかのアレルギー症状が出る人が大半だから気になったら言ってね、
 もしも血液の出が悪かったら言うからこれをにぎにぎしててね」

と握力を鍛えるゴムまりのようなものを渡されながら軽い説明をされ、
朝一に両腕に貼られていた麻酔のシールを剥がされるとぶっとい針を突き刺されました。
採血の針よりよほど太いものなのに、
麻酔のおかげか痛みは採血と同じくらいでした。
でもなんか左腕の方が痛かった。
血管の位置で痛さが違うらしいけど左腕だけは痛かったよ。

そうして血漿交換が始まります。
右腕に挿した針から血漿を抜き、左腕から健康な人の血漿を流し込む作業です。
どうやら私は血管が細めのようで、瀉血だけつ(血を抜くこと)に時間がかかると言われました。
そのため右手でボールをずっとにぎにぎしていました。
ツムツムもできないくらい力が入らないし手が痛いのに、です。

キツいわ!

その状態で3時間。
後半の1時間半くらいは気づいたら寝ていたのですが、
終わった時には体温が上がって身体中がだるくなっていました。
幸運にもアレルギー症状は出ませんでしたが、
体の中の物が丸ごと取り換えられるわけですから非常に疲れるんです。
週に何度も透析受けないといけない人は本当に大変だろうなと身をもって思いました。


それが3日連続です。
3日連続で、血漿交換をしたのです。
めちゃくちゃしんどかった……。

どうやら血漿交換療法というのは月に4回までしか保険適用内ではできないそうで
何かあった時のために、と1回分残して3回で一旦終了、
ということになっていたそうです。
病気の種類によっても保険適用の回数等は違うらしいんですが
詳しいことは知りません。もっと知りたかったらggって。


その血漿交換のおかげで、なんとか肺の出血は治まったらしく
熱も下がり、咳き込みも減ってきました。
でも、入院中で一番きつかった治療はこれでした。
二度とやりたくないくらいキツかった。
しかも3日目だけアレルギー症状が出てちょっと手と顔が痒くなったし。
血漿交換をするとカルシウムが減るとかで歯に電気流れてるような感覚になるし。
もともと低血圧だから血漿交換で血圧上がるとふわふわしちゃうし。
とにかくきつかったです。

しかしまあ、これでなんとか二度目の命の危機は去ったわけでした。
かろうじて。

SLEの闘病生活 その1

※病気に関するお話です。重い内容が苦手な方はご注意下さい。


全身性エリテマトーデス、だと長いので、
今回の記事から病気の呼称はSLEで統一します。
病気の詳しい内容についてはこちらのサイトをご覧ください。


前置きはここまで!

誕生日の前日、11月5日(火)に難病が判明した私です。
毎年、誕生日には自分好みのケーキを作っているのですが
当然ながら今年は無理でした。
そもそも台所に立つこともできないし。
ということで、母がホールのショートケーキを買ってきてくれました。


しかしこれが食べられないんだ……。

すごく美味しくて食べたいのですが、
クリームを体が受け付けず、どうしても少ししか口に入りませんでした。
毎月キロ単位のチョコレートを買い漁っては消費している甘党の私が、です。
だから私のケーキだったのに半分は父が食べました。

もっと食べたかったよ!!

なんて嘆いても仕方ないので、
父の誕生日(11月30日)の時のケーキは
私がたくさん食べるからね、と約束しておきました。


そして7日。
朝から38度近い熱が出ました。そして激しい頭痛。
処方してもらった解熱鎮痛剤を飲むため、
痛みに泣きながらなんとか体を起こし
スムージーを一杯の半分だけ飲んでから薬を飲みました。
そして再びオフトゥンにダウン。
午後に目を覚ました時には、熱は36度台に熱が下がっていました。
多分薬のおかげだろうと判断して、慌てて食事とシャワーを済ませます。
そしてまた鎮痛剤を飲んでオフトゥンへ。
体中に保冷剤を当てながら眠りました。


そして翌朝、11月8日(金)。
この日も朝から38度を超える高熱に、全身のこわばりと痙攣、
そして相変わらずの頭痛。
言葉を喋ることも苦痛な状態で、
早朝に起きてきた両親は即座に病院へ行く準備を始めました。
体に触れられるだけで勝手に口から呻き声が零れるような痛みの中、
枕から頭も上げられないため布団ごと引き起こされ、
父親の背中に乗せられて車に放り込まれました。

その間に救急外来に電話していたようで、
救急車を呼ぶか車で移動するかという会話を聞いた覚えが
うっすらと残っています。
救急外来に直接行っていいなら車で、って聞いたと思うんだけど……熱で記憶が……。


この時私が思っていたことは、
「なんでもいいから早く楽にしてほしい」
ということでした。

実は私は生まれつき膝が少し悪く、
幼い頃から成長痛のような痛みと付き合いながら生きてきました。
そのため、人よりも痛みに慣れていたという背景があります。
今回はそれが悪い方に働いて、我慢しすぎちゃったわけですね。
苦痛に慣れてしまうのは、本当に怖いことです。
後述しますが、下手に我慢すると簡単に人の体は壊れてしまいます。


先日紹介された大学病院に着くと、
診察室をすっ飛ばして外来用ベッドに運ばれました。
その頃には数日前の検査結果が届いていて、
SLEであるということが確定していました。

曰く。

「最重症型の全身性エリテマトーデス」


とのことです。
最重症型ですって。
なんだか強そうですね。


実際、病勢がありえない程の強さだったとのことです。
病気の強さを表す数値があるらしいのですが、
それが医師でもなかなか見かけないほどの高い数値になっていたそうで
「すごいね」と言われました。
嬉しくないよ。いや褒められてるわけじゃないんだけども。
ともかく、我慢しすぎて、あの世へ片足を突っ込んでいるような状態だったようです。

実際、もしこの時に動ける状態だったなら、楽になる方法として
死を選ぶこともあったかもしれない、と後から思いました。
それくらいギリギリの状態だったのです。


ベッドの上でまた採血をされ、
背中から針を刺されて髄液を抜かれ、
血圧と酸素量を測られて点滴の管が繋がれます。
しばらく水を飲むこともできていなかったために脱水を起こしていたようで、
点滴の針がなかなか刺さらずに腕が針穴だらけになりました。
ようやく点滴の針が刺さると、すぐに水分と鎮痛剤の投与が始まりました。

この時は朦朧としていたのですが、
どうやらこの先に受ける予定の治療の説明がなされ、
私の代わりに両親が同意書にサインをしていたそうです。
私自身も一応説明を受けたのですが、
まあ当然ながらその内容はちゃんと覚えていません。
説明されたってことは覚えてるんだけどね!

そして完全介護状態で再び車椅子に移され、
CT室で10枚くらいレントゲンを撮られ
胃液を吐きながらMRIまで初体験です。
工事現場みたいな音がするって聞いてたけど思ったより静かでした。
と思ったのは熱でやられていたからかもしれませんが。
そうして山のような検査を終えて、
40度を超える高熱の中、ようやく入院病棟に運び込まれました。


そこで始まったのが、
ステロイドパルス療法」という治療法。
SLEの特効薬となるのがステロイドなのですが、
普通の人は体内で1日に5mgほどのステロイドが生成されています。
それを1日に500 or 1000mgで3日間、点滴で体に直接投与するのです。
ちなみに、一般的にSLE患者の治療で使われるステロイドの量は、

・軽度:15-30mg
・中度:20-40mg
・重度:60mg

程度の投与量です。
(上記はあくまでも素人が説明を聞いただけの数値なので信用しすぎないでね)
でも桁を間違えているわけではありません。
この上に、

重篤な障害を伴う場合はステロイド・パルス療法を行う」

というものがあるのです。
だって最重症型って言われたもんね、私。
そりゃ一番強い治療法とられるよね。うん。当たり前だわ。


ということで、夕方から「ステロイドパルス療法」が始まりました。
んでそれは何なの、という方のために参考画像を貼っておきます。
2017年の夏に公開された「君の膵臓をたべたい」という映画です。
その後半の、この場面。

f:id:haruroll:20200108141436p:plain
(出典:君の膵臓を食べたい / Amazon Prime


この時に真ん中のちょっと右あたりに映っている、この機械。

これです(雑)

正確に言えばちょっと違ったりするのでしょうが、
一般人から見たら「機械で点滴を入れるときに使う機械」です。
これが一定間隔でトントン言って、薬剤を強制的に体に流し込むのです。
でもこの場面、医学を知っている人から見たらリアリティがないとか言われてましたね。
しがない一般的な難病患者のワタクシにはまったくわかりませんけど。


すこし回り道が過ぎましたが
このステロイド投与が始まったのが夕方頃でした(多分)。
同時に解熱剤、鎮痛剤も投与されていたのですが、
むしろどんどん体温が上がってしまったために
17℃の冷房を効かせた処置室にベッドごと運び込まれました。
病室のエアコンは一括管理なので、冬に冷房なんてつけられないからです。
部屋のあまりの寒さに両親も看護師さんも10分おきに部屋の外に逃げるような状態でしたが、
それでも私の体温は40度を超えたままでした。
たぶん、この時が一番死にかけていたんでしょうね……。

後から聞いたところによると、この時私はひたすら「暑い」と言いながら
頭の向きを動かしてもらってストローで水を飲もうとしては失敗していたらしいです。
そんな事、まったく覚えてないよ/(^o^)\


そして夜の10時頃になって、やっと体温が38度台まで下がってきました。
この時にようやく水を飲むことができるようになり、
追加で解熱鎮痛剤の錠剤を飲ませてもらいました。
そうしてなんとか少し落ち着いたので、両親はそこで一度帰宅しました。
まだ少しここに居ようか、と聞かれたけど大丈夫だと断った自分、
もしかするとちょっと親不孝だったかもしれないですね(?)

そうして何度か気絶するように眠りながら、
私はただ苦痛の中で夜が明けるのを待っていました。

SLEの前兆 その2


※病気に関するお話です。重い内容が苦手な方はご注意下さい。


前回の記事、最後をちょっと間違えてました。
布団から起き上がれなくなったのは、11月3日。
それが法事の翌日でした。

この頃から少し記憶が曖昧になっているので、
母のつけていた病状記録を参考にしながらこれを書いています。
明らかに様子がおかしいからとメモをつけていてくれた母に感謝しかないですね。


時間はほんの少し遡ります。


10月30日(水)のことです。
私の仕事先はシフト制のため、その日が休みでした。
そのため、少し遠くの評判の良い整形外科に向かうことにしたのです。
父の車に乗り込み、30分ほどかけて朝一番に予約をとってひと安心。
腱鞘炎にはステロイドの注射が効くらしいから
それを打ってもらえたら楽になるかな、
なんてことを母と話しながら、診察室に入りました。


そうしたら。


「これは腱鞘炎じゃないですね。膠原病系の病気です。
 かなり痛みが強いようなので一刻も早く診察を受けに行って下さい。
 今から紹介状を書きます。最寄りはどこですか?」


なんて???


膠原病、というのは聞いたことがありました。
叔母がリウマチ持ちで、たしかそれが膠原病の親戚みたいなものだったような……
という程度の認識でした。
つまりはリウマチ的なものか、と納得して、
「腱鞘炎に効くっていう注射やってもらえませんか?」
とダメ元で聞いてみました。

そうしたら
「打ってもいいけど、たぶんそれより早く専門医に診て貰った方がいいよ」
と言われました。
打ってくれたけど。右肩に。

レントゲンの写真も付けておくから早急に診て貰うように、
と何度も念押しをされながら病院から帰ってきたのですが
その翌日は、注射の効果で少しだけ痛みが和らいでいたので会社に行きました。
そしてその翌日も。社畜の鑑ですよ。
でも会社の名誉のためにも、無理なら休んでいいんだよと言われていたことだけは書いておきます。


今思えば、この時に休んで病院に行っていれば、
そろそろ仕事に復帰できていたのではないかと思います。
無理なんてするもんじゃないね。


そして、月が変わっての11月2日(土)。
その日は祖母の三回忌でした。
この頃には注射の効果も切れかけ、肩がまた痛み出していたのですが
大好きだった祖母の法事なので、
なんとか行きたいと無理をして参加しました。
精進落としのお寿司を食べるときなんて、
お箸が持てなくて親戚中に心配されたわけですが
月曜日に病院に行くから大丈夫、と笑顔で話す程度の余裕がまだありました。


そうなんです。
この日までは余裕があったんです。


11月3日。
その何日か前から、自室の2段ベッドに登ることができなくなり、
リビングの床に布団を敷いて寝ていたのですが
その日は朝目が覚めると、起き上がろうにも背中を支えられると痛い、
なんとか起き上がっても痛みで上半身を起こしていられない、
という地獄のような状態になっていました。
足の関節まで痛くなってきていて、立ち上がることもできません。
どうにか職場に休ませてほしいとラインを送り、
紹介状を貰った病院を調べるものの今日は日曜日。
そして不運なことに、その翌日、11月4日は文化の日の振り替え休日です。


病院は開いていません。


ただこの時も、体中が痛いというだけで
それ以外には全く、SLEの症状は出ていなかったのです。
顔に発疹が出る人も半数はいるそうなのですが、
私の場合、幸か不幸かそれもありませんでした。

ゲーミングチェアに座り(車椅子代わり)、
クッションの上に両手を置いて固定し、
うつらうつらしたりスマホを触ったりでその二日をなんとかやり過ごし、
ようやく11月5日になりました。

例によってなんとか体を起こしてもらい、
流し込むようにコーヒーだけ飲んで車で病院へ向かいます。
移動するのも大変なので車椅子を借り、
1時間は待たされたもののなんとか受付を済ませます。
ようやく「リウマチ膠原病内科」という科に案内され、
改めて順番待ちの受付に並びます。
その後採血と採尿に回され、診察を受けられたのがお昼前。
採血なんて12本くらい血を抜かれたんですよ。血液なくなっちゃうって。
9時過ぎに病院についていたので、検査があったとはいえ3時間は待ちましたね。
まあ大きい病院だからね、仕方ないよね。


そして診察室に車椅子で入っていくと、
私の様子を一目見ただけで先生は眉を顰めました。
腱鞘炎から始まって、という問診を終えてから触診、
そして血液検査の結果を見て、一言。


「おそらく全身性エリテマトーデスでしょう」


一般的にSLEって呼称されるんです、と言いながら
その先生は病気について説明してくれました。
免疫の異常で、自己免疫抗体というものが自分の体を攻撃してしまう病気なのだ、と。
医学的に断定するには数日後の検査結果を待たないといけないものの、
まず間違いなくこの病気でしょう、と。


もう、唖然呆然です。
なに?全身性??エリマ……デス???
よくわからないけどなんの病気かわかるなら鎮痛剤貰えますか???

って感じでした。


入院と通院どちらがいいですか、と聞かれ、
もし入院したら薬の量が減るまで退院できないから2~3か月になります、
という言葉に通院を選択。
病気の診断をするための検査結果が出るのが8日だということで、
その日は解熱鎮痛剤を貰って帰宅しました。

帰る道すがら、スマホで「全身性エリテマトーデス」
と打ち込んで調べると、出るわ出るわ悪夢のような検索結果が。


ステロイドがない時代は、5年生存率が50パーセントを下回っていたこと。

根幹治療方法が確立されていないこと。

発生原因が不明なこと。

一生、完治できない難病だということ。


多分、私自身よりも両親の方がショックだったのではないかと思います。
とにかく全身の痛みが優先されて、
自身ではあまり衝撃を受けている暇がなかったという言い方をした方が正しいかもしれませんが。


そうして、24歳の誕生日の前日に、難病であることが判明した2019年。
本当に大変なのはそれからでした。

あけましておめでとうございます



あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。

昨年は危うく年齢=寿命になりかけるという一大イベントがありましたが
今年はまず生き抜くことを目標にしたいと思います。
なんてたって去年の最後の三か月くらい、
体温が37度を下回ったことが数日しかないんですよ?

キツいって!
でも新年なので楽しいお話をします。
実は、大晦日にカトルカールを焼いたのです。
こんなの。

 

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本好きの下剋上、という小説があるのですが
それのアニメを今期、やっているんですよね。
それを見てふと思いついて焼いてみました。
カトルカールなんて何年ぶりに焼いただろうって感じでしたが
基本のバターケーキなので、ほんの1時間くらいで作れる簡単なお菓子です。
 
そのはずなのです。
 
結論としては、
病み上がりでお菓子作りなんてするもんじゃないですね。
レンジに型を入れた時点で力尽きて、
焼きあがるときにはもう完全に寝落ちしてました。
かなり膨らんでたけど焼きあがったらだいぶしぼんじゃったね~
と焼き加減を見てくれていた母に言われました。 

お菓子作りは体力勝負なのだということがわかった昨年でした。


病気についてのお話はまた今度!